能登半島地震の被災地支援にいってきました
呼吸器内科 二宮 清
4月1日から輪島市で3日間災害支援に4月21日から小松市で7日間診療支援に参加しました。
金沢から輪島へは車しか利用できず、陥没・亀裂部に簡易舗装を施した波打つ幹線道路に迂回路での徐行と片側通行の多さに辟易、到着までに平時の3倍の3時間を要しました。
宿泊施設は被災者専用で確保できず、食料と寝袋持参で輪島診療所の空きスペースを拝借し被災職員と共に寝起きしました。
市内中心部は、河岸の崩落があり、至る所に傾斜電柱と軒を連ねる倒壊家屋、倒壊物で塞がれた道路は発震時のままで手付かず。
火災に見舞われた朝市跡も、発震当時の倒壊物で道を塞がれ消防車は近づけず、自然消火により燃え尽きた残骸で放置されていました。
水道本管が3月末に復旧したので被災者は家屋の片付けに日帰りで着手し始めました。私達の仕事は、被災者宅の片付けと災害ゴミの搬出、患者宅を一軒一軒訪ね、帰宅者が居れば要望聞きと支援物資の配布をおこないました。片付け搬出は全て個人任せなので独居や高齢者世帯への無償支援は重宝がられました。
片付けに訪れた被災者宅は、発震時に着の身着のままで避難したので、鍋には煮炊き、洗濯物は干したままで3か月が過ぎていました。
患者宅を廻った印象は、未だ避難先から帰宅しておらずゴーストタウン状態、柱が歪み敷居が落ちて傾いた家屋が多く修理しても住めそうな家は10件に1件程度。
復興はおろか倒壊家屋の解体すら進んでおらず、この惨状での行政の支援は一人5万円のみ、悲しすぎる。
4月21日から石川県小松市、粟津温泉(北陸最古の名湯)近隣の小松みなみ診療所へ行きました。
周辺開業医の高齢化による廃業に加え温泉街で避難者600人を受け入れたので、この診療所へ患者が集中した結果、長年一人で切り盛りしていた医師が過労で病気になったので診療の応援に行きました。
避難者の患者さんの中には、被災地を離れた後ろめたさを感じる方がおり、無料の(塩分過多、野菜不足の)配食弁当を無駄にできない一心で残さず食べ、仕事を失い体を動かす機会が減り体重も増え持病が悪化、さらに仮設入居が始まり、遠方の避難者は入居の順番が後回しにされるのでは、と疑心暗鬼でストレスが高じる方もいました。
北陸は公共交通機関に乏しく、車が無いと生活に不自由なので高齢になっても運転しています。運転免許が無い私は、免許を取らなかったのを後悔しながら、毎日片道30分走って通いました。
地盤液状化による被害が大きかった内灘町に行きました。震源地から100キロ離れていたが砂丘の上にできた市街地です。私の歩いた場所は、最大膝の高さまでの上下の浮き沈みに斜めの傾きが加わり、歩いていると平衡感覚が狂わされ気分が悪くなります。一帯は広範囲に地盤の上下の波打ちと傾斜に横ずれ(側方滑り)が加わり、最長9m移動した場所もあると聞きました。崩壊を免れた建物も多くは傾き、さすがに居住はできず無人になっていました。
地震のエネルギーは凄まじく、地震国に原発建設は論外である、と現地に行き強い確信を持ちました。