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5/21(月)戦争体験事例交流集会を開催しました

5月21日(月)戦争体験事例交流集会を開催しました。

 

戦後73年が経過し、戦争を経験した世代が減少しています。戦争体験していない人達が増加しているいま、私たちは直接体験談を継承できる最後の世代です。戦争の悲惨さや平和の大切さを学び、継承していく機会として開催しました。

戦争体験者の7名の方にご協力いただき、職員が聞き取りをして体験談を発表させていただいたのですが、その中から1つ体験談をご紹介します。

聞き取りの様子

          

現在89歳のAさん。鹿児島県枕崎市の出身です。

女学校4年生の1月(卒業まで残り数ヶ月のとき)に学徒動員(学徒動員とは第二次世界大戦末期の1943年以降に深刻な労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員されたことである)で長崎の川棚へ派遣されました。海軍の魚雷を作る「イ組」と医師や看護師の補助をする医務部の「ロ組」のうち、Aさんは「ロ組」として派遣されました。看護師の資格や看護助手の経験がなくても、看護師の補助をすることを余儀なくされました。

終戦間近は空襲が激しく、耳が痛くなるほどに激しい爆弾の爆風に何度も襲われました。原爆投下された8月9日、長崎市から直線距離36.1kmのところのにある川棚にいたため、被害は免れました。原爆投下された瞬間は、ドカーッと強い風が吹いて「何なんだ」と周りの皆と話しており、後に新型爆弾(=原子爆弾)であったということが分かったとのことでした。

医務部であるAさんは、すぐに被曝者の治療のため寺に派遣されました。寺には、病院よりも比較的軽傷だとされる患者が座る場所もないくらい大勢運び込まれていました。初めて患者を目の前にしたときは、ウジがわいていたり、膿が出て骨が見えおり、あまりに衝撃的で気分が悪くなったそうです。運び込まれた人たちのなかで、ガラスが体中に刺さった少女がいたことが印象に残っているとのことでした。治療といっても薬はなく、ピンセットでウジをとってあげるなどの最低限の応急処置しかできなかったそうです。

終戦後、派遣先から皆で帰還しました。途中、八代付近で鉄道爆破があり、川棚から故郷の枕崎までほぼ歩いて帰還することになりました。帰還中におにぎりと漬け物を貰って食べたことくらいしか記憶に残っていないほど、壮絶な帰還になったとのことでした。

故郷の枕崎に着くと、町は焼け野原となり、人が1人もいなくなっていました。帰還したその日はとりあえず友人の家に泊めてもらいました。その後しばらくして、身内は空襲が激しくなったため、枕崎の住宅地から離れ、山中で野宿していたことがわかりました。幸いにも家族は全員無事でした。

戦後は皆で木と木を合わせながら住居を自力で造り、復興していきました。一番苦労したのは食糧難で、アメリカの戦闘機が油をまいて焼き払い、田畑は全滅していました。着るもの食べるもの、あらゆる物資が配給制のため、満足に得られなかったそうです。

Aさんからの訴え

・自分は幸いにも身内の中で犠牲者は出なかったが、戦争で奪われたものは多い。

・絶対に戦争を二度とやってはいけない。

 

Aさんの戦争体験を聞いて、全てを奪う戦争を二度と起こしてはいけないと強く思いました。平和と戦争は隣り合わせで、平和は崩れやすいものです。そして、今こそ憲法9条を守らないといけないと感じています。